前回5月下旬に更新すると予告?しましたが、早や6月に入りました。

前回ブログを更新した後、少しの間ドイツのミュンヘンへ行ってました。

行く前の日本と、ドイツ滞在中とに、対照的な体験をしましたのでまずこれを紹介します。

 

強制連行に関することです。

戦前から、特に戦争末期の2.3年前には、朝鮮半島から中国大陸から多くの人々が労働力として日本に強制連行されていました。

 

詩人の茨木のり子さんが「劉連仁(リュウリェンレン)物語」を書いておられます。

私は、世界史の授業でこの一大叙事詩を取り上げるのですが、私の早口をもってしても、朗読に1時間強かかります。勿論事前にプリントを配り、予備知識を学んだ上でのことですが…。

一部を「続きを読む」で紹介します。『りゅうりぇんれん物語 詩集鎮魂歌』(思潮社1965)から引用

 

丹波マンガン記念館

4月下旬、京都にある「丹波マンガン記念館」の館長李龍植(リリョンシク)さんのお話を聞く機会がありました。これから紹介する内容は、『ワシらは鉱山(ヤマ)で生きてきたー丹波マンガン記念館の精神史』から採りました。

この本は、館長のお父さんの還暦の記念に作成された本です。館長のお父さんは、マンガン鉱夫として働いていました。

 

マンガンは、単独では使用されないが、鋼材の脱硫酸用(なんのことですかね?)、ジュラルミン、乾電池などに使用されている鉱物のことで、世界的な産出国は、ロシア、南アフリカ、インド、ブラジル。日本では海外の安価な輸入品に押されて、今では採掘していないけれど、明治から、1980年代まで採掘していました。

 

近畿地方のマンガン鉱床は、殆どが丹波山地の中央部に密集し、鉱床は500.比叡山、大文字山から大津市、琵琶湖西岸、南岸にも鉱床の分布がみられる。

 

「強制連行」は、1937年の日中戦争勃発後の労働力不足を補うため、1939年から国策として行われました。最初は「募集」の形で、戦争の拡大とともに「徴用」の形で、日本の敗戦までに約160万人が日本に連れてこられ、このうち、軍艦や大砲などの生産に欠かせないマンガン採掘に朝鮮人が労働力として使われ、約15万人が送られました。

 

マンガンを掘り出すためには、まず坑道を作り、次にマンガン採掘です。いずれも、手掘り、もしくはダイナマイトで爆破します。その粉塵を吸入した結果、喘息やじん肺になります。記念館のHPアドレスです。

http://www6.ocn.ne.jp/~tanbamn/index.html

 

なぜ李貞鎬(リジョンホ)さんはこの記念館を建てようとしたのか?

「それは、戦争中に強制連行などで働かされ、若死にしたり、いまは散りじりになってしまった同胞のために、かつて彼らが生きたモニュメントとして残したいと考えた」ことが発端です。李貞鎬さんは1995年にじん肺のために62歳で亡くなられました。

 

現館長は次のように語っています。「多くの人がマンガン・鉱山の勉強に来られるので、マンガン記念館を作ろうと町に補助を求めたが、前京北町長は『金や銀なら良いが、マンガンなどは誰も知らなし、見学者は来ない。また、部落や朝鮮人の働いた歴史など暗いイメージで町のイメージが悪くなる。』と協力せず、逆に邪魔をして妨害した」。このマンガン記念館は、全くの家族でだけで1989年に作られました。維持費だけでも、毎年何百万もかかり、大赤字で、もう持ちこたえられない、限界だと館長は言っておられました。

 

ダッハウ強制収容所

次はドイツのでの体験です。

ナチスが作った収容所へ行きました。ダッハウ強制収容所といい、ミュンヘンの中心から電車で30分くらいのところにあります。

 

この収容所は、1933年にナチスが最初に作った収容所です。この収容所は、後に建てられた全収容所のモデルとなりました。教科書には「アウシュビッツ」が出てきますね。アンネの日記でもよく知られています。何がモデルになったかというと、ナチ親衛隊員(SS)のための「残虐行為の養成所・訓練所」でした。収容所があった12年の間に、ヨーロッパ各地から20万人以上の人々が、ダッハウ及びダッハウ収容所所管の各地の小規模収容所に拘留され、その内43000人以上が死亡しました。1945429日、アメリカ軍が生き残った人々を解放しました。

 

この収容所は、ドイツバイエルン州が支援しています。入場料は無料です。

 

この2つの何が対照的でしょうか。

 

マンガン記念館の館長李龍植さんの言葉があります。

「日本人は、戦争中の被害(広島・長崎)は言うが、加害は言わない」。

これらの施設を管理している団体も全く違います。個人、それも被害側が必死で持ちこたえているのと、加害側が税金を使って支援しているのと。

 

こうして考えてみると、日本の労働者の働きぶりに、この2つの施設の違いの根っこのところが繋がっているように私には思えます。

 

さてと、このブログの目的を忘れてはいけません。労働問題について一つ報告します。

以前、200636日のブログ「院内集会」の続きです。

 

国会議員を前にして、各地から議員会館に集まった女性たちは、「賃金差別や待遇、セクシャル・ハラスメント」について切々と訴えました。そのなかに若い女性がいました。私は丁度彼女の真後ろに座っていたので、彼女が緊張しているのがよく分かりました。彼女が何を訴えたのか、面倒でない人は以前のブログを見てください。

面倒な人は、彼女の弁護団のコメントを以下に紹介します。

また彼女のブログにアクセスしてみてください。

http://shigemitsu.blog40.fc2.com/blog-entry-271.html

 

≪弁護団のコメント≫

2008年4月22日、東京地裁において、株式会社東芝の社員がうつ病に罹患したのは過重業務が原因であるとし,解雇は無効であるとの判決が言い渡された。
原告は,被告株式会社東芝に就職し勤務していたところ,平成12年11月頃より被告会社内で発足したプロジェクト業務に従事し,長時間残業・休日出勤や各種会議開催等の過重な業務により,業務上の過度のストレスを受け,そのためにうつ病に罹患し,平成13年9月4日より休業を余儀なくされた。そして,東芝は,原告が業務上の疾病に罹患しているにもかかわらず,休職期間満了を理由に,平成16年9月9日付けで解雇する旨の通知を同年8月6日に行った。
本件は,原告が東芝に対し,解雇の無効確認(労働契約上の権利を有する地位にあることの確認),並びに,治療費・賃金と傷病手当金等との差額分・慰謝料等及び平成16年9月以降の賃金を請求した事案である。本日の判決は,原告側の主張をほぼ全面的に認め,
1 原告のうつ病発症(平成13年4月)は,平成12年12月から同13年3月にかけての長時間労働等業務に起因するものであり,
2 労基法19条1項により,解雇は無効であり,賃金の支払いを命じ,
3 被告に対し安全配慮義務違反があったとして損害賠償を命じた。
本判決は、今日の日本の職場の状況に照らして,画期的な意義を有する。
1 即ち,過重な業務が原因でうつ病に罹患した労働者を,会社が一方的に解雇するなど不利益取扱いをするケースが多い。本判決は,被告会社を含め日本の企業に対して重大な警告を発するものである。
2 また,本件で熊谷労基署の業務外決定の誤りが事実上明確となった。労働行政は,労働者を保護するべき役割を今後きちっと果たすことが強く求められる。
3 本件被告東芝は,日本の代表的な企業である。本判決を真摯に受け止め,職場を改善し,労働者の健康を守るよう抜本的に努力すべきである。

 

でも東芝は、即日控訴しましたでは今日はここまで。

劉連仁 中国のひと

くやみごとがあって

知りあいの家に赴くところを

日本軍に攫われた

山東省の草泊(ツアオポ)という村で

昭和19年 9月 或る朝のこと

 

りゅうりぇんれんが攫われた

六尺もある偉丈夫が

鍬を持たせたらこのあたり一番の百姓が

為すすべもなく攫われた

山東省の男どもは苛酷に使っても持ちがいい

このあたり一帯が

「華人労務者移入方針」のための

日本軍の狩場であることなどはつゆ知らずに

 

手当たりしだいばったでも掴まえるように

道々とらえ 数珠につなぎ

高蜜(カオミー)県に着く頃は八十人を越していた

 

〜中略〜

 

賄賂を持って請け出しにくる女がいる

趙玉蘭(チョユイラン)はこない

見張りの傀儡軍にいくばくかを握らせて

息子を請け出してゆく老婆がいる

趙玉蘭はまだこない

追いついてはみたものの 請け出す金の工面がつかず

遠ざかる夫を凝視し続ける妻もいた

血のいろをして沈む陽

石像のようにたちつくす女の視野のなかを

八百人の男たちは消えた

〜後略〜

注:趙玉蘭は劉連仁の妻、当時妊娠7ヶ月